仮面と光、または、とある能楽堂の午後の出来事

能評家の村上湛が今月の観世会の小冊子に掲載されている小文で少し触れているように、能楽堂が明治以降建物の中に取り込まれたことで達成した演技の精緻化には驚くべきものがある。本当にいい舞台にめぐり合えたときの、この瞬間が凍結されたまま永遠に続くのではないか、と思えるほどの凝縮感は室内空間ならではのものであり、野外の能舞台では味わえないものであろうと思う。他方、記憶があやふやで申し訳ないのだが、確か友枝昭世さんが、本願寺能舞台でシテを勤めたあとの感想として、陽のあたらないうす暗闇の中に居ることで「クツログ」という言葉の真の意味を体感できた、と書いている文章を以前読んだ記憶がある。自然光による空気感は、ライトによる無機質な光と明らかに違っており、光と影のコントラストによる独特の雰囲気を醸し出すのに適している。
 内と外の対比、ライトの光と自然の光の対比。能楽堂における光のあり方というのは最近とみに気になっていることの一つなのだが、その意味でユニークなのは中野にある梅若能楽会館である。観世能楽堂の移転に伴い、現在観世定期能は梅若能楽会館で開催されており、これまでこの舞台には殆ど来たことがなかった私も足繁く通うようになった。ここの舞台の一番の特徴は、窓ガラスがあって外光が取り入れられているということで、ライトと自然光がブレンドされて微妙な空気感が舞台上に現れる場合があるのだ。先月の観世定期能で野村四郎さんの「三井寺」を観ていた時のことだが、笠を被っている前シテの面が、梅若能楽堂の暮れ方に向かい薄く差し込む光と無機質なライトが作り出す微妙な空気感の中で、この世のものとは思われぬ憂いの表情を醸し出していることに気がついて、視線が外せなくなってしまった。まさに、釘付けである。変な例えだが、「夜目、遠目、笠の内」というのをはじめて実感した。ところが、一旦シテが笠を脱いでしまうと、ライトのほうの影響が強くなって2つの光の微妙なバランスが崩れてしまい、私の魔法の時間も突然に雲散霧消してしまった。
 あの笠の内の女性にまた出会えるとしたら、どこでどのような光の下でなのだろうか。昼下がりの能楽堂の座席で、まるで夢が醒めたあとのようなけだるさを感じながら、そんなことをぼんやり考えていた。