原典と模倣の間にあるもの、または、日本のオリジナリティについて

 NHKのクラシック番組の「らららクラシック」を見ていたら、武満徹の合唱曲が取上げられていて、ゲストで来ていた“あまちゃん”の大友良英さんが、武満徹の音楽はクラシックやジャズや日本の古典楽曲や流行歌などあらゆるものが武満徹という人間のなかで混ざり合ってできた唯一無二のものだ、といった感想を述べていました。
 また、画家の山口晃(余談ですが、ゴールデンウィーク前後に水戸芸術館でやっていた山口晃展「前に下がる 下を仰ぐ」は素晴らしいものでした。この人はいつどんな時代に生まれても絵を描いていたのだろうと思います)は、著書の『ヘンな日本美術史』の中で、日本の美術史に起こったことというのは外国から無節操に受け入れたものを何代にもわたってああでもないこうでもないとひねくって日本独自のものに変えてしまうことの繰り返しであり、そのことを日本にはオリジナリティがない、と言われてしまうのだが、本質がわかっていないとちゃんとずらすことはできないのであって、その「こねくり力」こそが日本のオリジナリティなのだ、と書いています。
 また、劇評家の渡辺保は、梅原猛観世清和が監修した『能を読む(1) 翁と観阿弥 能の誕生』の中に収められている小文「能-二つの視点」で、俊寛という日本の古典において非常にポピュラーな題材を取上げて、平家物語、能、文楽、歌舞伎、倉田百三の戯曲という5つの俊寛ものの作品の中で、流刑地である鬼界ヶ島がなぜ作品によって異なる舞台設定(無人島か否か、島民はどんな人たちか、等)になっているのかの理由を、俊寛という話を取上げるに際して表現したい力点がそれぞれに異なることによる必然的なものであった、と考察しています。
 分野は音楽・美術・舞台と違いますし、内容そのものも少しずつ違うことを言っているのですが、私にはこれら3つの発言はどれも同じことを意味しているように思います。約めていえば、日本においてオリジナリティというのは原点を模倣し、それを重ねた先に立ち現れるものである、ということかと思います。テーマとバリエーションを繰り返した先に、バリエーション自体が最後にはテーマになってしまう、と言ってもいいかもしれません。ここでポイントなのは、時間の経過がそこに読み込まれている、ということかと思います。全く同じものが繰り返されているように見えても、それは単なる模倣ではなく、時間を経過して変化が読み込まれている分オリジナルになっているわけです。白紙に円を描くとき、上から見ると一周回って単に元のところに戻っているように見えても、始まりと終わりとでは何かが違う、その円を描くという行為分だけ新しい境地に至っているということでしょうか。
 上で紹介した渡辺保の文章には、日本と西洋の演劇の違いとは、日本の古典芸能にとって演技は芸であり日々変化する「肉体」を通して更新されていく一義的なリアルさを追求しないものだが、西洋における演技はそれとは異なり、いかに一義的なリアルさを演技に持たせられるのかを指向している、という文章が続きます。このリアルさと肉体の関係性の違いは、原点と模倣の関係性による日本と西洋のオリジナリティの捉えかたの違いに深いところで結びついているように思うのですが、この話を続けるには、まだ私自身の考察が足りないようです。今日の話は、円を回りきらずに途中で止まってしまいましたが、いずれ元のところに戻って日本的なオリジナリティを獲得できるように、私もこのテーマをもう少しこねくって見たいと思います。