橋本さんと隔靴掻痒

 橋本努『自由に生きるとはどういうことか―戦後日本社会論』を読む。見通しがよくて、爽快。取り上げられるのは、順不同で、明日のジョー、オウム真理教エヴァンゲリオン尾崎豊全共闘大塚久雄、うーん、戦後すぐの自由論者が思いだせん。小泉信三だった気がする、中野重治じゃないよね。ところで、竹内好って出てきたっけ。出てきてないよな、多分。あぁ、今思い出した、パブリックスクールだ。
 さて、個人的に一番のお気に入りはエヴァンゲリオンの分析で、分析対象と分析手法と分析深度がシンクロしている感じがして、とても好ましく思いました。要するに、まぁ、エヴァの分析はこれでいいよな、という印象をもったということです(専門家じゃないもんで、100%印象批評です)。
オウム真理教も問題ないし、尾崎豊もちょっと違和感は感じそうになったけど大丈夫、明日のジョーと全共闘もセピア色ですが、よいです。でも、最初の2章と最後の1章が、私が往々にして社会学の人たちが書く書物、特に新書、というか殆ど新書しか読まないんですが、に感じてしまう居心地の悪さ、というかお尻がむずむずする感じ、を惹起しています。本当に申し訳ないです。すごく頭も性格もいい方だと思います。少なくとも読者をしてそんな気にさせる著作です。加えて、とても勉強になります。でも、なんだかむずむずします。
 まず、最初の1章が戦後をまず押さえておこうという目配り以上の何らかの意味を持ちえているのかよくわからなかったこと、次の章に出てくる大塚久雄の自由論批判が、彼自身への批判を超えてどのような射程を持つのかがよくわからないこと(これは他の著作を読めばわかるような気もするので、この本ではの限定つき)、最後に、最終章ででてくる物事の布置がよくわからないこと、クリエイティブクラスの話のあとに格差社会の話をもってくると話がとっちらかっちゃって、何が言いたいんだか、よくわからなくなっちゃう。少なくとも私はそうで、色々な部分に目配りできるのは凄いことだし、新書の役割として教科書的な部分があるのは十分承知してるんですけど、無理を承知でいうと、バランスしすぎていて、もっと突っ込んでほしいところで一歩引いてしまうために、面白さが突き抜けないのが本当におしい、と思うわけです。

白き靴の上から、書いても掻いても届かない、もどかしさゆえの社会の学か

というわけで、そんなつもりはなかったのに、書いているうちに辛口になってしまいました。難しいもんです。でも、橋本氏は、今後に注目の書き手の一人でありましょう。