内田さんと村上さん

 内田樹の『村上春樹にご用心』を読む。書くほうも、読むほうもプロではない私の基本的な読書スタイルは読み飛ばしである。内田氏の書く文章は、速度感がちょうどうまく自分が読む速度に合致しており、さくさくと読める上に、話のとびぐあいも好ましく、かなり読んでいるほうだと思う。村上春樹についてもそれなりには読んでいるので、これは読む前からある程度の満足が計算できる読書ではあった。
 この本で気になったポイントは2つあって、一つめは、村上春樹の小説は、他者としての死者が我々の前に現れる、という点で一貫している、という話。これは、レヴィナスを通じて村上春樹を見ることによって得られた知見と推測できるが、レヴィナス未見の私にはなんとなくそんな気もするかな、くらいの響き方だった。ただ、気になったので、本屋に行って同じ著者の「私家版・ユダヤ文化論」も買ってきて読んでみた。レヴィナスそのものは難しくて読めないだろうという正しいがへなちょこな判断に、『私家版・ユダヤ文化論』を読めばさらに理解が深まるかも、というへなちょこな上に間違った判断があいまって全然参考にならず。でも本自体は面白かったのでよしとする。読んでいる途中で、なぜか、福田和也の『奇妙な廃墟』を読んでみたくなった。時間がないから、読まないけど。
 もう一つは、村上春樹の「雪かき仕事」の話。ようするに、この世には、なぜだかわからない悪意があって、それによって引き起こされる困ったことをなんとか切り抜けていかないといけないんだけど、みんなそんなことにはかかわりたくないようだから、誰もやらないなら僕がやるよ、という話。これは、サリンジャーキャッチャー・イン・ザ・ライで主人公が夢想する子供を受け止めるキャッチャーのイメージがぴったりで、サリンジャーは読んでるからというわけではなかろうが、こっちは腑に落ちた。腑に落ちたついでに思い出したのが、福岡伸一のベストセラー『生物と無生物の間』で出てきた、物質というものはほっとくとエントロピーが増大して死滅に向かうんだけど、生物というのは、その方向性を押し止めて一時的ではあっても恒常的な状態(ホメオスタシスというのかな)を作りだすことができて、逆にそうした状態を作り出せるものを生物と呼べばいい、という話(科学の話には弱いため、恐ろしく誤読している可能性あり)。無理やり接続すると、「一直線に死なずに、せめて雪かきくらいして、生物らしく生きましょう(もしくは、死にましょう)よ」ということになるんだけど、どうですかね。元気でるのかな、これで。
 補足ですが、私も内田氏と同じように、村上春樹は同(おんな)じ話を繰り返し語っていると思ってます。でも、同(おんな)じ話を繰り返し語れること、それがわかっていてもそれでも面白いこと、さらに、どこが同じなのかわかったようでわからないこと、が村上春樹のすごいところだよ、とも思ってます。ああ、これも実は同じ話だったのか(なんとなくだけど)、と感じる瞬間が、小説を読む時の一番の快楽です。
 文章を書くのに慣れてないので、堅めの文章で始まったにもかかわらず、ぜんぜん持続せずに、あっという間にぶっちゃけ口調になってしまいました。でも、こんなもんでしょう。