渡辺さんとイチロー

渡辺明『頭脳勝負―将棋の世界』を読む。将棋界が渡辺明という稀有の才能を持ちえたことは素直に喜ぶべきことであると思う。

 出発点として、本来将棋は棋譜が全てであり、棋譜を見てその意味がわかるというのが至高の境地であることに間違いはない。モーツァルトの楽譜をみて打ちのめされるサリエリというやつである。しかし、渡辺明はそれだけでは不十分であるとして、将棋をスポーツのように見てもらいたい、と述べる。つまり、「あのシュート決めなくちゃね」とか、「あそこでストレートはないよな」と無責任にファンが楽しむのと同じように、「あそこで金打ちはないよな」とか、「ここから逆転できるのはすごいよな」というレベルで楽しんでもらいたいというのだ。
 その意気やよし。ただ、サッカーや野球は、シュートをはずしてオリンピックにいけなかったとか(これ近々かなり高い確率で起こりえますけど)、勝負球のストレートを打たれて試合に逆転負けしたとか、の場合はそれほどサッカーや野球に詳しくなくても何が起こったかは明白だが、将棋は往々にして何が敗因かはっきりしないし、見た瞬間のわかりやすさという点でライブではスポーツと同じようには誰もが楽しめるわけではない。でも、それではスポーツのように楽しむ可能性が全くないかというとそんなことはなくて、スポーツライティングが事後的に作戦や心理や偶然を微に入り細に入り描くことでライブとは違うスポーツの面白さを描くことが可能なように、将棋でもその指し手を選んだ作戦なり、指してしまった心理状態を描くことで事後的に楽しむことは可能である(というか、つい最近まではそれが主流だった)。

 でも、ここにも一つ問題はある。通常、当事者であるスポーツ選手や将棋の棋士自身が、振り返ってそのときの心理状態なり、勝敗の原因なりを自分で説明し分析するというのは最近でこそ増えてきたがまだ珍しいし、得てして読んでもピンとこないことが多い。これは、下種のかんぐり的には、本当のことをいうと今後の勝負に差し支えるから言わないのだ、ということになるのだが、むしろ、当人はまじめにしゃべっているのだが、受け取るほうの理解レベルに合わせられないのでさっぱり要領を得ない、というのが原因だと私は考えている。例えば、イチローは雑誌のインタビュー等ではしゃべりすぎと思うくらい饒舌だが、そこで何が話されているかを我々が理解するのはかなり難しい、というか、よくわからない。これは、将棋の自戦観戦記にもありがちである。当事者が、それも一流中の一流の人間が、一般の人に十分にわかるように、ある意味客観的すぎるくらいに客観的、批評的に自分の体験を語るのは、特に非言語的な領域で行われる芸能(私はスポーツも将棋も演劇も美術も全部ここれに入ると思ってます)についてはほとんど例がないくらい難しいことなのである。

 ようやくここで渡辺明の登場となるが、渡辺明には、この、「客観的すぎるくらいに客観的、批評的に自分の体験を語り、人にその意味を理解させること」が苦もなくできてしまうのだ。これには本当に驚いた。この本の中で、昨年の竜王戦7番勝負でシリーズ全体の流れを変えた第3局終盤の7九角という着手について自分で解説しているのだが、これまで私が読んだどんな観戦記よりも臨場感があり、かつ的確で納得できる解説がなされており、かつ面白い。自分の過去の棋譜をとりあげて、その意味を解説したこの1章は、渡辺明という棋士が将棋ファンに対して贈ってくれた最上の贈り物だと思う。因みに、贈り物というのは、その芸能を好きな人にとっては、これはたまらないなぁ、と私が心底思ったもの、というくらいの意味であるが、今回の渡辺明からの贈り物は、その大きさから言うと、バランシンの「くるみ割り人形」を見たときに、この振り付けはニューヨークシティーバレエとそのファンへのバランシンからの贈り物だな、と思った時に比肩できるくらいの大きさだった。スポーツで例えると、もしイチローワールドシリーズに出たとして、2戦負けたあとの3戦目の9回裏に逆転のレフト前2点タイムリーヒットを打ったことを、イチローが、どういう考えで打席に入り、どういう球が来ると予測し、実際にピッチャーが投げた球に対してどういう風に体が反応して、どういう結果になったか、を逐一、手に取るように説明してくれた、という感じである。これって、やっぱりすごいよね。

 長々書いてしまいましたが、それだけ感動した、ということで、万国の将棋ファンは渡辺明の旗の下に集まってもいいのではないか、とさえ思っている今日この頃です。あと、イチローは一回でいいから、ワールドシリーズに出てもらいたいなぁ、そのあとでどんなわけわからないことをインタビューでしゃべっても許すから。