宮大工・松浦さんと軒の反り

 松浦昭次『宮大工と歩く千年の古寺』を読む。続けて、『宮大工千年の「手と技」―語りつぎたい、木を生かす日本人の知恵』と『宮大工 千年の知恵―語りつぎたい、日本の心と技と美しさ』も読む。勢いにのって、根来寺に多宝塔を見に行く。うーん、宮大工すげぇー。

と、ここで終わっても十分なのだが、少し補足。3冊通じて今の若いもんはどうなのかねぇー、なっちゃいないんじゃないかねー、とっても心配だねー、という話が定期的に出てきますが、松浦さんほどの一芸を極めた方が、老境(失礼)になって振り返ってみれば、ほとんどの若いもんがだめにみえるのは必然でして、ここは一番、そうっすよねー、ご指摘ごもっともです、とお答えするのが正解と思います。ただ、職人のように仕事の型がしっかりある職業に関しては、跡継ぎがいなくてこのままじゃだめだ、と言いつつもなぜか跡継ぎが現れ、こんなの本物じゃない昔はよかった、と言いつつも系統がつながっていき、それがいつのまにか新しい伝統になるのが伝統の伝統たる所以なので、それほど心配はしてません。むしろ、職人に発注する側が問題なのだ、と思います。この本の中で、松浦さんが大きな影響を受けたと言って感謝している、発注者であるお寺の和尚さんや文化庁の役人さんのような方が、これからも出てくるのか。その点については、残念なことではありますが懐疑的にならざるを得ず、伝統という木がもし枯れるときがあるならば、その理由は、木の周りに土と空気と太陽の光がなくなるからなんだろうなぁ、というちょっとブルーな感想を持ちました。

松浦さんの本を読めば、お寺に行ってまず軒をチェックするくせがつきます。そして、その軒の角度を作り出している垂木の形状や、軒を支える肘木の形、軒下の蛙股に目が行くことでしょう。多宝塔であれば、心柱にまったく触れずに放射上に延びる二階部分の部材の角度に職人の技を感じます。そして、いくつかのお寺を回って、こうつぶやくことになります。「宮大工って、すげえなぁ〜」。

松浦さんは、中世の日本建築の良さを説き、その良さが京都や奈良の有名寺院ではなく、ちょっと郊外の寺社や、瀬戸内のお寺の中に生きていることを語っています。有名寺院では大工はどうしても保守的になってしまう、ちょっと離れたところで作るときにこそ好きなように腕をふるうことができるものだ、という松浦さんの言葉には、自らの経験に裏打ちされた重みがあります。浄土寺の軒の反りを見るのが、今から楽しみです。待ってろよ、浄土寺