ヴェルディの胸像は何を見ているのか

根っからの芝居好きとしては、何か芝居のことも書きたいのだが、このところあまりお芝居やコンサートに行っていないので、書くことがない。というわけで昔話を一つ。ニューヨークのメトロポリタンオペラの地下一階には、オペラの有名な作曲者や歌手をテーマにしたギャラリーがあり、相当な数の写真や絵画、彫刻などが飾られているのですが、その中の一つに作曲家ヴェルディの胸像があります。地下の入り口から入ったところのホワイエの左側、コートクロークから少し手前の壁の前に以前は置いてありました。前のシーズンの途中でギャラリーの展示変更に伴う模様替えがあったようなので、今はどこにあるのか確かめていませんが、恐らく今でもそのあたりにあるのではないでしょうか。

もじゃもじゃの髪と立派な口ひげ、あごひげを蓄えた胸像なのですが、正面から見ると思いっきり下を向いていて視線を合わせることができません。何かを一心に考えているような、何かに怒っているような印象を与える彫刻です。何年か前のオペラの幕間に、この彫像の近くでコーヒーを飲んでいるとき、ふと、そういえばこの彫像は何を見ているのかな、と気になりまして、近づいて体をかがめひょっと目のあたりを覗き込んでみました。そこに私が発見したのは、今にも泣き出しそうな、非常に深い悲しみをたたえた寂しそうな双眸でした。余りにも正面から見たときと印象が違うため、驚いたのですが、意表をつかれつつもこれは確かにヴェルディその人の彫像だな、という思いを強く持ちました。ヴェルディのオペラでは、そこでいかに勇ましい曲や美しい曲が奏でられようとも、そのベースには人間のおろかさや弱さへの諦念と共感がありますが、この彫像は、そのような音楽を作った稀代の作曲家の写し身としてまことにふさわしいものでした。

この出会い以来、メトロポリタンオペラにヴェルディの曲を聴きにいくときは、私はいつもこの彫像を見に行って、ご本人に失礼ではありますが、下から覗き込むことにしています。そうすると、いつもと変わらぬ子供のように悲しげな瞳がそこにあります。この瞳は、こんなに寂しそうに何をみているのでしょうか。もしかすると何もみていないのかもしれません。でも、このような目をした人間にしか、あのような音楽は作れないのかもしれません。でも二つのことだけは確実で、一つは、私は、この胸像も、その胸像になっている人の音楽も好きであること、そしてもう一つは、これからもメトロポリタンオペラに行く度に、この胸像を探して下から覗き込んでしまうだろう、ということです。