ドストエフスキーと立川談志

まだ、ドストエフスキー読んでます。この間、これも光文社古典新訳文庫で、『地下室の手記』を読みました。主人公の地下生活者がいみじくも自分で言うとおり、この作品のほとんどは、語り手のくりだす「たわごと」で占められています。でも、読み終わると、これは「芸術」だな、と思います。「たわごと」なのに「芸術」、このことについて、少し考えてみます。
私が思うに、この「たわごと」の一番の特徴は、自己言及性ということです。要するに「やっちまった瞬間にもう、自分でもわかってるんだよ。わかってるんだけど、どうしようもないんだよ。そういうもんなんだよ。でもそれ以外にどうできるっていうんだよ。教えてくれよ。教えられないだろ。だからさぁ・・・(以下、どこまでも続く)」ということです。この自分の行為を自分の中に限りなく織り込んでいくという態度、無限の自己省察とその反動としての暴力性や幼稚さの発露、そして高度な批評性、というのが、この「芸術性」の正体です。つまり、話は逆になってまして、芸術性が高いからそのようなものを書くのではなく、このようなものを読むと、なんかよくわからんけど「芸術的」なものを読んだ気がするのです。
その昔、19世紀や20世紀初頭は、文学や美術や演劇や、要するに芸術そのものと思われるようなジャンルでこのような例が頻繁に見受けられましたが、時代を下るにつれて、そのような事例は、より周辺的と思われるジャンルにおいて見られるようになっています。柳田国男に『蝸牛論』という論考がありまして、これは、言語が中心から周辺に伝播していくのに伴うタイムラグにより、周辺地域に過去に中心地域で使用されていた言葉の残滓が見られる、という論なのですが(因みに、私は、これを『全国アホ・バカ分布考―はるかなる言葉の旅路』というやたらにおもしろい本で知りました)、私はこの現象もこの考え方で理解できると思っています。時代が下がるにつれて、より周辺的(周辺的だからダメとか言ってませんのでご注意ください)なところに、昔は中心的な部分で見られた現象が現れるわけです。
それでは、現代においてドストエフスキーのような、とびぬけた「芸術的」自己言及性を持っているのは誰でしょうか。私が、ぱっと思いつくのは、落語の立川談志です。私は、立川談志の高座をライブでもテープでもそれほど聞いているわけではないですが、著作を読んだり、先輩落語家への言及を聞くにつけて、この人は「芸人」というより「芸術家」だな、と思いますし、「芸術的」であることへの拘りを感じます。また、この自己言及性の強さとそれへの拘りという点が、立川談志爆笑問題太田光を評価する理由なのではないか、と睨んでいます。
 もう一人、私がおススメする「芸術家」は、漫画家の西原理恵子です。その破壊的な自己言及性は、まさに「現代の無頼派(笑いつき)」です。よく、西原理恵子は、日本最強の私小説作家だ、と言われますが、これは、日本の文学が芸術としての私小説を生まなくなったことへの批判というよりは、芸術としての私小説西原理恵子によってその芸術性の極限を証明した、ということなんではないかと思います。そして現代の文学は私小説ではないところに向かったわけです。それがどこかは、私にはよくわかってないんですが。
 というわけで、現代日本の芸術家は誰ですか、と聞かれれば、「立川談志西原理恵子です」と答えたいと思います。勿論、そんなことは誰も聞かないわけですが。