蝶々夫人と着物の話

年末年始と常夏のフロリダで休みを満喫するはずだったにもかかわらず、アラスカ発の大寒波の襲来によりキーウェストでぶるぶる震えていたためにすっかりご無沙汰してしまいました。今回は、オペラの話です。

私がこれまでに一番たくさん見たオペラの演目は、「蝶々夫人」です。そもそも、生まれて最初に見たオペラも「蝶々夫人」でした。「蝶々夫人」は、演出家の演出欲をそそるらしく、写実風のものから象徴主義的なものまで様々な演出があります。能の様式を意識しつつ、何もない舞台に無国籍風衣装、そして次々と移り変わる背景光が特徴のロバート・ウィルソン演出の舞台も印象に残っていますが、最もおすすめのものを選べ、と言われれば、メトロポリタンオペラで見たアンソニー・ミンゲラ演出の「蝶々夫人」ということになります。DVDなら、ジャン・ピエール・ポネル演出のもの(ウィーンフィル、フレー二、ドミンゴという一流揃い)が一番です。

この2つの「蝶々夫人」の特徴は、全く現実に即していない東洋趣味が横溢しているため、「こんなの日本じゃないっ」と怒り出す人がたくさんいることが容易に想像できる、ということです。ポネルのDVDはご丁寧にもそれに加えてアメリカへの底意地の悪さも兼ね備えています(冒頭で、Tシャツを着たピンカートンが、障子だけでできたありえない家の障子を突き破って逃げていくシーンは最高に笑えます)。ただ、そもそもがオリエンタリズムな作品に対して、ちゃんと日本らしくやれっ、というのは余り意味がないように思います。写実的な「蝶々夫人」もかなり見てますが、たいていは演出が写実になればなるほど、作品としてはつまらなくなるようです。

ミンゲラ蝶々では、舞台をミニマリズム的な「何もない空間」とすることや、文楽の技法を大胆に取り入れたイギリスの人形劇団「Blind Summit Theater」の器用(この劇団、来日しないかなぁ)、障子の移動による場面転換(宮本亜門演出の「太平洋序曲」を初めとして最近しょっちゅう見る手法ですが)、といった最新の日本イメージに基づいた演出がふんだんに施されていますが、30年前の素朴すぎるポネルの日本理解と比べれば、随分進歩したもんだと思います。個人的には、一幕の最後にメトロポリタンオペラの天井から、歌舞伎で使われる紙製の白い雪ならぬ赤い桜の花びらが降り始めたときは、「METに歌舞伎の雪がふった」ことに強い感慨がありました。

このように私はミンゲラの演出を高く評価しているのですが、それでも見ていると違和感を覚える部分があることは確かでして、その中でも大きなものは着物へのそれだと思います。ミンゲラ蝶々では、中国系のデザイナーが着物をデザインしているためでしょうか、出てくる着物は全て中国風のものになっています。恐らく、西欧人であれば、着物が日本風だろうが中国風だろうがそれほど気にならないのでしょうが、私も含めてですが、日本人は感覚的に日本風の着物と中国風の着物を見ただけで識別できますし、日本風の着物を着ていてしかるべき場面で中国風の着物を着ている、もしくはその逆、というのはなぜかとてもひっかかるわけです。映画「Memoirs of a Geisha」に感じる違和感も、かなりこのことが影響していると思います。そして、「Memoirs of a Geisha」がアカデミー賞の衣装デザイン賞を取っていることから、この衣装がその部分への違和感なしに高く評価されていることもわかります。

ここで面白いのは、ミンゲラ蝶々にせよ「Memoirs of a Geisha」にせよ、デザイナーはあえて着物を日本風にしなかったわけですが、ミンゲラ蝶々と同じシーズンにメトロポリタンオペラで上演された譚盾(タン・ドゥン)のオペラ「始皇帝」で衣装デザインを任されたワダエミは、見事に中国風の衣装デザインを作ったということです。この本物っぽさに対するこだわり、というか、適応力の高さ、がいかにも日本人ぽいと私は思います。理由が、演出した張芸謀チャン・イーモウ)に「中国の着物にしてね。わかるから。」と言われたというものだったりしたら笑いますが。

さて、オペラの話なのに全然音楽のことに触れないのもなんなので、最後に書いておきますと、実は、ミンゲラ蝶々への私の最大の不満は、蝶々夫人の歌唱でした。演出から言って、ビア樽のような蝶々夫人ではいけないのはわかりますが、ソプラノのドマスは入れ込みすぎてました。蝶々夫人は、普通に歌えばそれだけで泣ける名曲揃いですが、なかでも私は、有名なアリア「ある晴れた日に」の少しあとで、蝶々夫人が港に入ってくる軍艦の旗を望遠鏡で確認して、「自分だけが、彼が帰ってくることをわかっていたんだ」と歓喜の絶頂となるシーンと、もうピンカートンが自分のところには帰ってこず、しかも息子を彼に渡さなければいけないと決意した蝶々夫人が、息子をかき抱きながら自らの絶望と息子への愛情を語るシーンがとりわけお気に入りです。この両極端の感情をうまく表現し、歌い上げることができるソプラノが私にとって最高の蝶々夫人なのです。えてしてつまらない演出のほうがいい歌のことも多く、なかなか両方を満たす舞台には出会えないのですが、いつか最高の演出で、最高の蝶々夫人を聞くことを願って、これからも「蝶々夫人」を見続けたいと思ってます。