ドストエフスキーと文体の速度

 話題になっていたので、『カラマーゾフの兄弟1 』(光文社古典新訳文庫)を買う。しばらく手が出ず、日々が過ぎる。ちょっと、読んでみる。思ったより読みやすい。続けて読む。これはいけるかも。どんどん読む。1を読み終わる。そして、2を読む、3を読む。4を読む。5も読む。読みやすいっっ!!!5の解題も一気読みし、『「カラマーゾフの兄弟」続編を空想する』(光文社新書)もさくっと読み、『ドストエフスキー―謎とちから』(文春新書)も勢いにまかせて読んで、ようやく止まる。う〜ん、おなか一杯。ご馳走さまでした。

 これだけ怒涛の寄りで一気読みをしたのは久しぶりであるが、それがドストエフスキーだったことが感慨深い。私の最初のドストエフスキー体験は、高円寺の古本屋で各100円で買った『罪と罰』の文庫上下巻だったのだが、よく確かめずに買ったため上巻が新潮文庫、下巻が角川文庫という杜撰さ(下巻を読み始めるまでそれに気づかなかったのがまた笑える)。しかも下巻の角川文庫が旧字体のため辞書をひきひき読み終わるのに数週間かかったという、かなりトラウマの残るもので、そのせいで「ドストエフスキー=読みにくい」という図式ががっちり成立してしまい、その後の読書の大いなる障害となっていたのだ。因みに、訳者は、上下巻とも米川正夫だったのだが、数年後、同氏の韻文訳『エヴゲーニー・オネーギン』にノックアウトされた(いい意味です)ことを考えても、訳が悪かったとも思えず、ただ不幸な出会いをしてしまった、ということだったのだろう。勿論、その数年の間に、森鴎外の『即興詩人』を我慢して読んだおかげで、旧字体への対応が飛躍的に進歩していたという事情はあるのだが。

 では、これまで苦手にしていたドストエフスキーが、なぜ今回さくさく読めたのだろうか。ロシア文学の最大の躓きの石である人物名を固定し、なるべく読みやすい文体を心がける、という亀山郁夫の翻訳方針が当然一番の理由としてあげられるが、一つ指摘しておきたいのは、亀山訳の文体の速度である。亀山版『カラマーゾフの兄弟』の文体の一番の特徴は、その饒舌さにある。熱に浮かされたようにしゃべりまくり、書きまくり、考えまくるのが亀山版ドストエフスキーの文章で、ある意味、酔っぱらってものすごい速度で頭が回転している(それなのに翌日は全て忘れて二日酔いだけというのもありがちな話ではあるが)ようなスピード感ともいえる。言い換えると、じっくりと腰を落として考えるとつじつまが合わないはずなのに、勢いで持っていかれているような感じ、とも言えるだろうか。

 亀山氏は、2つの新書で、ドストエフスキーのテキストを複数の層(『「カラマーゾフの兄弟」続編を空想する』では、物語層、象徴層、自伝層の3つ、『ドストエフスキー―謎とちから』では、それに歴史層を加えた4つ)を重ね合わせて読む読み方を提唱している。その妥当性を認めること自体は吝かではないし、特に鞭身派と去勢派を通してみたドストエフスキー解釈についてはもっと突っ込んだ見解を聞いてみたいと思うが、読んでいるときに、この文体の速度に抗って踏みとどまって色々と考えをめぐらすことは、少なくとも私には不可能だった。モークロエ村のグルーシェンカのところへと疾走するドミートリーの乗る馬車が、私にとっての亀山版カラマーゾフそのものである。

 できうれば、『未成年』→『悪霊』→『白痴』→『罪と罰』、と順番を遡って翻訳して、亀山版ドストエフスキーの世界を完結させてほしい。個人的には、この文体の速度で読む『未成年』がどうなるのか、とても興味があるし、わくわくする。やっぱり小説は、わくわくしながら読まんといかんよな。