三国志と吉田秀和

ブログを再開してすぐ長い眠りに入ってしまったわけですが、何もしていなかったわけではなく、インドネシアに出張に行って腹を壊したり、浅草で歌舞伎を見まくったり、三国志を読んだりしていました。

さて、ちくま文庫の井波律子訳の三国志を読み終えたのですが、印象としては、やはり曹操劉備の第1世代の頃の話がキャラクターも話も多彩で圧倒的に面白く、第2世代の話になるとそれらの縮小再生産という感が否めなかったです。まだ諸葛孔明が生きているうちはそれでもまだなんとか興味を繋げていけたんですが、第7巻の冒頭で孔明が死んでからはえんえんと続くエピローグを読まされている感じでした。まぁ、要するに尻すぼみなんですが、これだけ長い作品になると1巻くらいは面白さの余韻が残っていて惰性で読みきれてしまうので、全体には余り影響ありませんでした。というか、この長さで最初から最後まで面白いというのが逆にありえないでしょう。

事前の予想通り、文中に頻出する漢詩については今回も苦戦しました。せっかく原典訳で読むのであれば、漢詩の部分を楽しめてこそ意義があるとは思うのですが、結局、ほぼ漢詩部分は飛ばし読みで、全部を読み終わってから気になったものだけ遡って書き下し分と訳を拾い読みしました。これは漢詩に限ったことではなく、詩と文章が混在するような作品はどうも苦手です。一番困るのは和歌で、いまだに源氏物語を読みかけては途中で挫折するのは、途中の和歌でいちいちひっかかるからというのも大きな理由の一つです。そもそも和歌の意味するところがよくわからないし、考えて意味が分かったとしてもなぜそれほど重要なのかがよくわからない。最近、能をよく見に行くのですが、ここでも作品理解を妨げているのは和歌への理解不足のような気がします(能のテキストにはしょっちゅう和歌の引用が出てきます)。いい加減なんとかしなくてはと思うのですが、解決の糸口はまだ見つかってません。

さて、愚痴はそのくらいにして、三国志くらい長い話だと、それだけを読んでいるといことはありえないので、その間に他の本も平行して読むことになるのですが、たまたま、一緒に読んでいたのが、吉田秀和「世界の指揮者」(ちくま文庫)でした。これは、同名の著作に纏められている歴代の名指揮者に関する文章に、それ以外の媒体に発表された指揮者に関する文章やレコード評をまとめたもので大変読み応えのある本ですが、次から次へと登場する世界の名指揮者についての達意の文章を読みながら、これは「本紀」に対する「列伝」だなぁ、と思って読んでました。三国志には、曹操側にも劉備側にも、また孫権側にも、この人物のことをもっと読んでみたい、と思わせるキャラクターが何人も登場します。ただ、そのような「列伝」が成立するためには、歴史としての「本紀」が必要なわけで、例え個々の記述には意識されていなくても「列伝」の背後には「本紀」の存在が前提とされているのだと思います。そう考えてみると、吉田秀和の批評にとっての「本紀」とは何なのか、がとても気になってきました。私は、吉田秀和のいい読者ではないので、これがそうです、とは言えませんが、批評にとっての「本紀」とは何か、というのは、結構考えてみると面白い主題だと思います。