野田歌舞伎「愛陀姫」と腹芸

歌舞伎座で野田歌舞伎第三弾「愛陀姫」を観る。満員御礼。おめでとうございます。歌舞伎座では、いつも1階(もしくは3階)で観ているので、2階後方で見たのは初めてであった。野田歌舞伎の第一弾「研辰の討たれ」も第二弾「鼠小僧」も、初演時に歌舞伎座で観ており、個人的には、「研辰の討たれ」のときの客席の「これから何が始まるんだろう」というわくわくした雰囲気が忘れがたい。「農業少女」など野田さんの他の芝居を見ていてもそう感じるのだが、野田さんの作る戯曲は、「はからずもそのような状況に追い込まれてしまった主人公が、他人=民衆・大衆からの勝手な期待と要求に応えようとして、踊らされ、傷つき、挫折しながらも、そこに何らかの救い(それが客観的にはいかに悲惨であろうと)を見出す」という話なのだと思う。というか、野田さんの戯曲のどれを見ても、私にはそう見えてしまうのだ。

「研辰の討たれ」の守山辰次の場合は「あだ討ち」が、「鼠小僧」の棺桶屋三太の場合は「義賊という立場」が、そして「愛陀姫」では、愛陀姫の場合は「祖国復興」が、濃姫の場合は「祖国防衛」が、彼らの運命を翻弄することになる。ただ、オペラ「アイーダ」を忠実になぞった結果、愛陀姫の場合は木村駄目助左衛門(この命名は傑作!)「への」裏切りによる、濃姫の場合は木村駄目助左衛門「の」裏切りによる、それぞれの個人的な葛藤が、劇的な推進力として前面に出てくるため、前の2作に比べると主人公の翻弄されぶりと救われぶりへの共感度が若干少なくなったようにも思った。

今回見ていて気がついたことを一つ。渡辺保氏がご自身のHPで指摘しているように、歌舞伎では存在しない「傍白」(横に人がいるのに自分の内面をべらべらしゃべる、でもそれは隣の人には聞こえない、というせりふのこと。因みに、日本のマンガでは高度な発達をとげている)が、「愛陀姫」ではふんだんに使われている。その雄弁なせりふは、野田さんの巧みな言葉の使い方もあって聞くものを圧倒するわけだが、それを聞いているうちに、ここでは歌舞伎で非常に重要といわれているある要素が抜けていることに気がついた。それは「腹芸」である。「傍白」があれば、その人間が何を考えているのかについては自明であって、「思い入れ」や「腹芸」は不要になる。素人の思い付きではあるが、「腹芸」が重視されるようになってきたのは、明治以降、特に九代目団十郎以降という印象があるが、それは、「傍白」を許されない歌舞伎という演劇による、「近代化」への対応だったのかもしれない。

オペラと歌舞伎の両方の愛好者として、もう一歩だけ考えを進めてみるが、それではオペラには「言葉」しかなくて「腹芸」に相当するものはないのか、というと、それはちゃんとあって、それが「音楽」ではないだろうか。オペラでは「言葉」では言いつくせないものが「音楽」として鳴っているのだ、とすれば、オペラにとって作曲者が最も重要なのもうなずける。翻って、今回の「愛陀姫」では、「凱旋行進曲」など「アイーダ」の曲を邦楽器と洋楽器の合奏で演奏するという音楽的な挑戦も大きな話題の一つだったわけだが、その音楽が「腹芸」の消滅を補うほどの効果を挙げるにいたらなかったのが、今回見終わったあとの若干の違和感の原因だったようにも思う。ただ、歌舞伎座にはピットがないのでしょうがないのだが、今回の「愛陀姫」の完成版は、演奏テープではなく、生演奏での上演なのではないか、という気がしてならないので、ほぼ無理と承知の上で、一夜限りの生演奏での上演をリクエストしておきたい。まぁ、もしそんなプレミアム公演が実現したら、そもそも切符が入手不可能でしょうが。