京都でお寺(と神社と映画館)をめぐる話

先に言っておきますが、今回は長いです。

大阪に来てから京都や奈良のお寺や神社を暇があればめぐるようにしている。東京からだとなかなか来られないし、関西にいる間になるべく多く見ておこうという腹積もりである。

京都の文化財特別公開といえば、財団法人京都古文化保存協会が春と秋に行う非公開文化財特別拝観(昨年秋で第43回を数える)が有名だが、冬にも社団法人京都市観光協会が主催する非公開文化財の特別公開がある。今回の対象となっているのは次の10か所である。

相国寺 開山堂・法堂
相国寺 瑞春院
東寺 五重塔
東寺 灌頂院
智積院
知恩院 三門
知恩院 経蔵・勢至堂
六道珍皇寺
六波羅蜜寺
立本寺

このうち、昨年秋の特別公開で見た東寺 五重塔智積院知恩院 三門、の3か所を除いた7か所を1日で見て回ろうというのが、今回のお話である。

まずは、JR京都駅から、近鉄にのって次の東寺駅で降り、東寺の灌頂院を目指す。スタートを東寺からにしたのは、JR京都駅からアクセスしやすいことと、他のところが10時からなのに対して9時半から見られるのでその分時間が稼げるからである。灌頂院は、真言宗の僧侶に密教の教えを伝達するための建物であるが、儀式の際にたくさんの僧侶をいれるためであろうか、空間としてはかなりがらんとしており、そこに2種類のおおきな曼荼羅金剛界胎蔵界の両界を表す)の織物が天井から掛けられていた。曼荼羅は見た目にかなり新しいもので、暗くても細部の意匠まではっきりわかる。東寺に行くたびにいつも思うのは、自分たちの持つ文化財(仏像や絵画や文書や織物や建物等)の来る人々に対しての提示の仕方が実にうまい、言い換えると、マーケティングのセンスがある、ということである。その結果、いつも何かを買わされて帰るはめになる。日本最高の国宝プロデューサーであった空海が、京都への真言密教のショーケースとして作ったお寺だけのことはあるのだ。「国宝プロデューサー」や「真言密教のショーケース」といった表現は、私のオリジナルではなく本で読んだものだが、いかにもぴったりくる表現である。因みに、これはほめ言葉である。

次に、時間を節約するためにタクシーで相国寺に向かう。相国寺は、京都五山の第2位に位置する禅宗名刹にもかかわらず、塔頭金閣銀閣のほうが遥かに有名という不思議なお寺さんである。法堂は天井の「鳴き竜」が有名で、以前に行った際に竜の鳴かせ方を教わったのだが全く思い出せず、むなしく手を数回たたいて立ち去る。開山堂は、枯山水の庭園と普通の庭園が、枯れ川を境にして一体として庭になっているところがよかった。次に、塔頭の瑞春院に徒歩で移動する。瑞春院は、水上勉の「雁の寺」のモデルとなった寺として知られている。因みに、原作の寺の名前は孤蓬庵なので、モデルとしては大徳寺を連想してしまうのだが、水上氏は小さいころ瑞春院で修行中に耐えられなくて逃げ出したという経験があり、それを基に創作したそうである。お寺での説明では、小説が出てからも水上氏はなかなか瑞春院を訪れず、結局再び訪れるのは50年後になってしまいました、と言っていたが、原作は、生臭坊主が愛人を寺に連れ込んで、修行中の少年に理不尽な修行を押し付け、少年は生い立ちのコンプレックスと修行への疑問、愛人へのアンビバレントな感情に突き動かされてその坊主を殺害して姿をくらます、という話なので、まぁ、行きたくない気持ちもわからなくはない。少なくとも、逃げ出したときの住職がいたら、ちょっと行けんわな。また、いざ行ってみたら、雁だと思っていた襖絵が孔雀だったという話もおもしろかった。

次の目的地の立本寺まではバスで移動する予定だったのだが、近くの北野天満宮で梅の開花祭りをやっていることを聞きつけたので、軽く昼を食べてから予定を変更してタクシーで北野天満宮まで移動する。今年は寒さが厳しいため、まだ梅の花の咲きぐあいはちらほら程度だが、梅林を通り抜け、川沿いを散策してから、本殿に上がって拝観し、宝物殿を見てから徒歩で立本寺に向かう。立本寺は、日蓮宗のお寺だが、実は今まで京都で日蓮宗のお寺をみたことがなかった、少なくとも、意識してはみたことがなかった、ので大変興味深かった。仏像を立て並べて立体曼荼羅を作るといった発想や、日蓮像が五鈷杵の代わりに経典を持っていることから見て、かなり密教の影響を受けているな、という印象だった。立本寺のあとで浄土宗の総本山である知恩院に行ったのだが、同じ密教から発していても、浄土宗には仏像を並べて立体曼荼羅にするといった発想は全くなく、むしろ知恩院には三門に見られるように禅宗からの影響が見られるところがおもしろいところである。仏像や絵画がないので、知恩院売店は仏具と食べ物が中心になっており、そういえば東寺では行くたびに何か買うけど、知恩院で何か買った記憶はないなぁ、と気がついた。

さて、ここらへんでいい加減疲れていたのだが、最後の気力を振り絞って知恩院から六道珍皇寺まで東山の雑踏を歩く。六道珍皇寺は、この世とあの世の境である六道の辻に立つお寺で、昼は宮廷に夜は閻魔大王に仕えていた小野篁が毎夜冥府に行くのに使った井戸とか、死者を呼ぶための戻り鐘とか、荒俣宏チック、陰陽師チックな道具立てで、独特な雰囲気を醸し出していた。それがこんな東山の街中にあるというのがミスマッチなのだが、やはり、訪れるなら幽明の境である夕方がおススメだろう。お盆の精霊迎えには大変な賑わいになるらしいのだが、この狭い敷地に人がひしめいた様子を想像すると、その時期にこようとは余り思わないかも。

既に4時を超えていたのだが、1つだけ4時半まで拝観受付をしている六波羅蜜寺を最後に残しておいたのが手馴れた手腕というもので、首尾よく間に合った。ただ、殆ど閉まりかけだったので、有名な空也立像(教科書によく出ている口から小さな仏像が出てるやつ、予想よりは小さい)を含む宝物館をざっと見て退散する。ここの宝物館には、他にも平清盛坐像とか運慶坐像とか写実的な像がたくさんあってなかなか見所が多い。

なんとか1日で7か所をめぐるという目標は達成したが、久しぶりの待ち歩きで完全にへたってしまった。にもかかわらず、好事家としての血が騒ぎ、三条の映画館でMETのライブビューイングでオペラ「ヘンデルとグレーテル」を見てから帰る。第1幕は当然爆睡。でも2幕は堪能。指揮者が、私がオペラの指揮者としてはかなり信用しているウラジミール・ユロフスキだったのもよかった。彼のいいところは、音楽の流れを絶対に止めないところである。演出は、METとしては珍しく、カニバリズムさえ連想させるくらい「食べる」というテーマにこだわったもので、見ていて倉橋由美子の「大人のための残酷童話」をちょっと思い出した。昨年の「蝶々夫人」といい、METの新総支配人のピーター・ゲルプは、新演出に意欲的である。前総支配人のジョセフ・ヴォルピーは、大工見習いからトップまで上り詰めた初の生え抜きの総支配人で、立志伝中の人物だが、新演出には拘らず、最高の歌手を揃えて歌わせることに重点を置き、演出はあくまでも歌を邪魔しない範囲で、というスタイルだったので、ゲルプのこの新しい方向性がMETの観客にどこまで支持されるのか、ちょっと気になるところである。

深夜に帰宅。即睡眠で、明日は出勤。好事家なのも大変だが、まぁ、自業自得ではある。