サイモン・マクバーニーで谷崎を観る(ヨシ笈田付き)

友達のAくんに面白いからと薦められたサイモン・マクバーニー演出の「春琴」を、世田谷パブリックシアターに急いで観に行く。当然、立ち見席しか残っておらず。立って観る。40歳超えての立ち見はできればやめたいのだが、そういえば、この間観た野田秀樹演出の「キル」も立ち見だったし、もう人気のある現代演劇はコネなしだと立ち見でしか見られないのかも。しくしく。この分だと、いずれ立ち見中にぎっくり腰で病院に搬送されるかもしれんわ。くわばら、くわばら。

さて、余談はここまでにして「春琴」である。確かに面白い。傑作である。今、日本にサイモン・マクバーニーに匹敵する演出家がいるのかどうか、見終わった後でしばし思いをめぐらせてしまった。特に、クライマックスシーンの、「おまえだけにはみられとうなかった!!」という春琴のせりふとともに春琴と佐助がひしと抱き合い、その二人が乗った畳を他の出演者がぐるぐると回す(横でうっとりと空想に遊ぶヨシ笈田付き)のところで、「あぁ、日本の演劇にも、まだできることはあるんだ」と思わず感動してしまった。これは、劇前半で、春琴を人形2体(以前にも「蝶々夫人」のときに書いたブラインド・サミット・シアター作成)と人形振りをする役者にやらせることで観客の感情移入を巧妙に排除し、初めて語り手の佐助が春琴の内奥の声に迫ることができたクライマックスの一瞬だけ春琴を生身の人間として観客の目の前に提示する(しかも、そのときには、役者の顔は包帯で見えないという皮肉さ)という心憎いばかりの演出のおかげである。

物語は、明らかにこのシーンで折り返されており、それまで極めて曖昧に語られてきた佐助による春琴の物語は、このシーンから遡行して語られていたのか、というのが一挙に了解されるのにも脱帽である。これこそ、時間を操って一瞬にしてすべてを、すべてをもって一瞬を観客の前に提示できる演劇の醍醐味である。従って、この時点でロジカルには話は完結していて、その後の三味線が下りてくる壁につぶされるエピローグは、個人的には多少付け足し感がある。ただ、このちょっと付け足し気味の終わり方というのは、得てしていい演劇にはつきものでもあるのもまた経験的に言えることなのだが。

サイモン・マクバーニーばかりほめていても仕方がないので、他にもほめると、まず役者の大変さをほめたい。マクバーニーは、肉体的にも精神的にもかなり役者を追い込むタイプの演出家だし、役者をかっこよく見せよう、とかは1ミリも考えていない。役者全員が佐助並みに嗜虐的でないと勤まらないんじゃないかとさえ思えるくらいである。役者が大変、というのはこういう演劇を見て初めて言えることのような気がする。

そして観客もよかった。まだ終わってないのにフライング拍手してしまった人が一人いたのは愛嬌だが、終わってもすぐに拍手せずにしっかりと余韻を味わったあとで、決して高くなく静かな拍手が切れ目なく続き、カーテン(ないけど)コールが5回もあった。絶対とは言わないけど、普通はいい演劇はいい観客に恵まれないと成り立たない。今日の観客は、傑作を支えるに足る質のいい観客だった。年齢層はかなり若かったけど、伝統芸能のお客さんよりずっとちゃんとしてるし、まじめに観てる。やっぱり、観客のマナーは年齢じゃないわ。

最後に、パンフレットをほめたい。普通の公演のパンフレットは、単に記録としての価値しかないものがほとんどだが、今回のパンフレットに載っているサイモン・マクバーニーとヨシ笈田への鴻英良によるインタビュー記事は、内容の濃さと面白さという点で出色である。このまま埋もれさせるのは本当に惜しい。今回の作品だけでなく、サイモン・マクバーニーやヨシ笈田自身の理解、さらには演出や演技の本質への理解にさえ役立つ内容である。「いい舞台をするために生活するのではなく、いい生活を送るために舞台をやる」のだ、と一見あっさりと語られたヨシ笈田の言葉に、奇妙に引き付けられる。こりゃ、遅かれ早かれ「俳優漂流」買っちゃうだろうな。

以前、リンカーンセンターのサマーフェスティバルで日本人の役者による「エレファント・バニッシュ」をみたときのポストトーク(だったと思う)で、サイモン・マクバーニーが、本当は谷崎の「陰影礼賛」を劇にしたかったが、余りに難しいので村上春樹ならできると思ってやった、と言っていて、そうか、もう谷崎はあきらめたのか、と思っていただけに、少し形は違ってもこのような素晴らしい作品を作ってくれたことには感謝したい。やはり、「あきらめの悪さ」は一流の条件である。是非、この作品をもって、もう一度リンカーンセンターあるいはヨーロッパのフェスティバルに行ってきてもらいたい、と願っている。あと、世田谷パブリックシアターに、ブラインド・サミット・シアターを日本に呼んでほしいんだけど、やっぱり無理かなぁ。