間とヴォイス

国立文楽劇場文楽を見に行く。余り体調がすぐれず、お恥ずかしい話ではあるが、何度か意識を失う。個人的には、舞台やコンサートを見ながら寝てしまうことについて、それほど違和感を持ってはいない。というのは、過去の経験から言って、一番典型的な爆睡パターンというのは、その作品に集中しよう、入り込もうと試みて、何らかの理由(今回の場合は体調の不良だったわけだが)によりそれに失敗してしまうことで引き起こされるものだからである。ただ漫然と見ている分には、実は寝ることもままならないのであって、変な言い方だが、寝るにも集中力が必要なのだ。

さて、公演のパンフレットに人間国宝竹本住太夫師匠のインタビュー記事が載っており、その中にとても興味深いくだりがあった。住太夫師匠曰く(原文は関西弁ですが、再現できません、残念)、義太夫というのは長いものだが、それは物理的に長いというよりも、観客が長く感じるということが問題なのだ。早く語ればいいということではなく、文章と文章の間にある間を語ることが必要で、それがないと語りに変化がなく、間が「抜けて」、短いものでも長く感じてしまう。それができるようになるまでには時間がかかるが、太夫はそれを目標に稽古しているのだ、と。

ええ話しや〜(ここだけ関西弁)。住太夫師匠は、ここ最近、本を出したり、インタビューに答えたりすることで、義太夫の奥深さを何とか後輩たちに、そしてファンや一般の人たちに伝えようとされていて、そのポジティブな姿勢には本当に頭が下がる。ここで住太夫師匠が言われていることは、文楽だけでなく、歌舞伎や能狂言でも同じで、せりふとせりふの間、音と音の間、息と息の間意、動きと動きの間、にどれだけ内容が詰まっているかで、その演目が主観的にいくらでも長くなったり、短くなったりしてしまうのが、日本の舞台芸術の特徴だと個人的には睨んでいる。

このときに面白いのは、中味が詰まっていればいるほど時間は短く感じるが、中味が詰まっていないと時間は長く感じるということである。また、日本の伝統音楽の演奏やあるいは演技においては、演者相互の「見計らい」というのが重要になってくるわけだが、その場合に計られているのは、音やせりふや動きそのものというより、その間にあるものなのだと思う。

さて、ここでこの考えをさらに広げると、この間とそこに詰まっているものの大切さというのは日本だけの話なのか、ということに思い至る。例えば、オーケストラでは音と音との関係が重要なので、それがきちんと聞き取れるように指揮をすべきだ、というドキュメンタリー映画チェリビダッケの庭」(だったと思うけど、うろ覚え)でのチェリビダッケの発言がある。また、栗山民也「演出家の仕事」での、演出にとって聞くことの重要性を強調した「ものを聞くことは、音と音の隙間から、何を聞き取るのかということ」という言葉も思い出される。また、英語で、彼は自分のVoice(ヴォイス)を持っている、とか、彼女は自分のVoice(ヴォイス)をまだ見つけていない、といった表現があるが、その場合のヴォイスというのも、実はこのことなんじゃないかと私は考えている。声という意味でのヴォイスは誰もがもっているわけだが、そのヴォイスが作り出す空隙に何が詰まっているのかが重要で、そこに何もなければ、彼/彼女はまだヴォイスを持っていないわけだし、そこに豊穣な、他のヴォイスと響きあうものがあれば、そこにはヴォイスがあるわけである。

こう考えてくると、間とヴォイスによる考察で、日本と西洋を問わず殆どのパフォーミングアーツについては説明がつくような気がしてくるのだが、実は一つこれだと説明できないことが残る。出し惜しみするわけではないが、そのことについてはまだはっきりと考えがまとまっていないので、お話しするのは別の機会に譲りたい。

さて、ヴォイスのことは文楽が終わって家に帰る道すがら、つらつらと住太夫師匠のインタビューについて考えているうちに「はっ」と思いついたわけであるが、思いついたあとで、そういえば最近どこかでヴォイスについて目にした記憶があったようだが、と考えてみて、どうしてもそこでは思い出せなかった。この文章を書いてから、どうしても気になるので、ググッて調べてみたところ、4/10の「内田樹の研究室」のエントリ「Voiceについて」だった。「内田樹の研究室」は定期的にチェックしていて、この記事は斜め読みで細部までそれほどきちんと読んだわけではなく、また、内容的にもまったく同じことを言っているわけではないのだが、改めて読み返してみると、かなり近いところで発想していることがわかる。それなりに一生懸命考えたことが、記憶の中で薄れかけていた何かにインスパイアされていたことがわかって、なんだオリジナルじゃなかったんだ、とがっかりする人と、おれもそれほどすてたもんじゃないな、と喜ぶ人がいると思うが、私は後者なので、単純にうれしかった。