一を聞いて十を知る: 四月大阪文楽公演「熊谷陣屋」を観て

大阪まで二代目吉田玉男襲名披露公演を観に行ってきた。襲名の演目は「熊谷陣屋」。文楽でも歌舞伎でもとてもポピュラーな演目だし、文楽なら先代玉男の舞台、歌舞伎なら吉右衛門歌舞伎座さよなら公演など、名演も数多い。そういう「これ観るの何回目かな〜」というお馴染みの演目で思わぬ発見があり、だからこそ古典は面白い、というのが今回のお話。

文楽ではだいたいあるが歌舞伎だとカットされてしまう「熊谷陣屋」の前の段(正式な名称では「熊谷桜の段」)というのがある。この冒頭で、陣鉦陣太鼓(戦場における戦の合図で、黒御簾内で鉦や太鼓を鳴らす効果音。歌舞伎や文楽の時代物でよく出てくる)がチャンチャン、チャンチャンと鳴るのだが、その音を聞いた瞬間、私の「熊谷陣屋」という舞台への印象がまるで変わったのだ。正確に言うと、「なるほど、そういうことだったのか」と思ったのです。

これまでの私は、「熊谷陣屋」というのは、上司である義経から無理難題を押し付けられた熊谷が一人息子を身代りとして差し出すという究極の犠牲行為によって難題を解決へ導くものの、息子を手にかけなければならなかったことを悔やんで出家する話で、義経の指示が弁慶の書いた桜の制札の謎解きという曖昧な形で提示されるがゆえに正解であるという確信なく犠牲を迫られるある意味日本型社会における中間管理職的悲哀の典型、という見方をしていた。他方、歌舞伎版の「十六年は一昔」という名台詞に象徴される極めて印象的な花道の引っ込みについては、妻の相模に断りなく勝手に出家してしまっていいのか、という疑問も抱いていた。

こうした見方そのものが今回まるっきり逆転したということではないが、私の中で「わかった」ことを文字にしてみると次のようになる。

1.陣屋は戦場の中にあり、自らの子を身代りにした熊谷の選択は「非日常的な戦場という極限状況における選択」であって、妻の相模や出家のことは極限状況で取った行動に後から日常的な意味づけを行うことにより回帰的に導かれたのではないのか。

2.つまり、相模、藤の方、梶原、弥陀六、義経など、次の「熊谷陣屋の段」に登場する人物たちは「熊谷桜の段」で熊谷に断りなく次から次へと陣屋に押しかけてきた人々で、熊谷としてはこういった人々が敦盛もしくは小次郎のことを気にかけて陣屋にやってくるのは想定外だったのではないか。言い換えれば、熊谷にとっては自分の子供を身代りにするという究極の選択は既に過去の行為として自分の中では完結しており、後はそのことを義経に首実検という形で報告するだけ、その前に身支度を整えるため陣屋に寄っただけなのに、帰ってきてみれば次々と想定外の人々が目の前に現れて、図らずも自らの行為の意味づけをせざるを得なくなった、ということではないのか。熊谷は戦場すなわち非日常的空間である陣屋で、期せずして家庭や政治や過去の因縁といったある意味日常的なものと直面しなければならなくなったのではないか。

3.ここでクローズアップされるのが、敦盛の首を討ったと熊谷が仕方話をする場面である。舞台上では相模と藤の方がそれを聞いているわけだが、実は、梶原も弥陀六も義経も同じ話を裏で聞いているという設定になっている。つまり、様々な利害関係を持った立場を異する関係者全員(もちろん、観客も)が、舞台の表と裏で一斉に熊谷の話に聞き入っている。熊谷は、自分が行った行為について、関係者全員がそれぞれ納得できるような話を即興でしおおせなくてはならない、わが子を身代りにするのとはまた別の種類の、しかしながら等しくきわめて困難な状況に置かれることになる。そして、熊谷はそれに成功する。

4.この困難度に比べれば、後の首実検の場面では義経だけを念頭に話をすれば良いので、演劇的には最大の見せ場ではあっても熊谷にとってはむしろたやすいことではなかったか。非日常的な戦場という極限状態における選択と、立場の異なる関係者全員への説明によりその行為の日常的意味づけを行った熊谷は、最後に出家という形で戦場からも日常からも遠ざかる決断をすることになる。

5.つまり、ここでの熊谷に投影すべきなのは中間管理職的悲哀といった日常的な人間の姿ではなく、究極の状況において過酷な選択を迫られ、さらに予期せず家族や関係者から説明を求められながら、そこに解決策を見出して最終的には自らの決断で俗世から去っていくという、神話的・英雄的人物の決断と孤独を描いているのではないだろうか。そうであれば、妻である相模が最初から何の相談もされていないことも、その近寄りがたい人間像にアプローチを試みるため歌舞伎では幕切れにより人間的な台詞やエピソードが追加されたことも納得できる。

もちろん、これだけのことを一瞬で考えた訳ではないが、この「わかった」という感覚は何なのかと思いつつ、その後を観た結果としてこうなった。長々と書き連ねたが、言いたいことは「文楽前場は大事なのでちゃんと見よう」ということに尽きる。それが確認できただけでも今回大阪まで行った甲斐があった。